懐風堂日誌

同人サークル・少年迷路主宰 五戸燈火の日記

【読了】A・A・ミルン『赤い館の秘密』創元推理文庫

創元推理文庫の創刊60周年を記念した「名作ミステリ新訳プロジェクト」の第3弾として『赤い館の秘密』の新訳版が先月発売された。作者はくまのプーさんの生みの親として有名なA・A・ミルン。戦前英米本格推理小説黄金時代の初期の代表作として、おそらく後世のミステリマニアに多大な影響を与え続けている作品だと言っても過言ではないだろう。僕としてもこの新訳版で久々の再読となったが、やはり昔に読んだものだから忘れているところも多く、新鮮な驚きとともに読むことができてとても面白かった。

 

赤い館、第四の入り口

新訳版の解説は加納朋子さんが親しみあふれる文章を書いておられる。その中で「赤い館の入り方」として三つのルートを挙げている。まずひとつに、ミルンがくまのプーさんの作者であること。プーさん好きが高じてその作者の他の作品も読んでみるというパターンである。もうひとつが、江戸川乱歩が選んだ黄金時代ベストテン。これはミステリ好きにはお馴染みのものだろう。こういったランキングを参考にしてミステリ沼にハマっていった人は多いのではと推察する次第。そして最後に、赤い館の探偵役、アントニーギリンガム金田一耕助のモデルだったという話。
 
ともあれ、未知の作品を読むに至るにはなにかしらのキッカケがあるものだ。僕はここに赤い館への第四の入り口をつけ加えたいと思う。即ち、栄光のゼロ年代にオタクライフを満喫した人なら避けては通れなかったモンスターコンテンツ「涼宮ハルヒシリーズ」に設定上登場した 長門有希の100冊 である。そう、これを参考にして読書沼に堕ちていったオタクは多いのではないだろうか。かくいう僕もその口だった。長門有希が読んだのならというミーハーこの上ない理由で赤い館に入ったのだった。そして出られなくなってしまったわけだ笑。しかしいま見てもこのリストはよくできていると思う。古典から(当時の)新作まで、本格ミステリ、SF関係の必読書がバランス良く採られている。
 

輝かしき英国田園ミステリの想い出

『赤い館の秘密』と切っても切り離せないのは英国の長閑な田園風景だろう。僕は英国には行ったことがないけれど、古典ミステリを通して英国の田園風景のイメージが自分の中にできあがっている。『月長石』『トレント最後の事件』『赤毛のレドメイン家』『牧師館の殺人』『ナイン・テイラーズ』など同様の舞台の作品が僕は大好きだ。そして赤い館の作中にも登場する田舎のレストラン兼パブ兼宿泊施設みたいなアレ、多くの作品で○○亭と訳されているアイツが特に大好きだ。日本人にとってはあまり馴染みのない商業施設だが、だからこそ異国情緒あふれる感じがして面白い。赤い館では「ジョージ亭」「仔羊亭」「鋤と馬亭」という三つの宿屋が登場する。このいかにも直訳といった感じもたまらなく好きだ。「亭」の字が田舎っぽい雰囲気を醸し出すいい仕事をしているところが大好きだ。ただ、創元推理文庫の旧版では「ジョージ旅館」「小羊旅館」「耕馬館」という風な訳になっているので、この点に関しては新訳版に軍配を上げたい。やはり英国田園ミステリには○○亭は欠かせない。ところで、この○○亭という訳を最初にしたのは誰なのだろうか。知っている方がいたらご教示願いたいところである。
 

探偵役は素人であってこそ

赤い館を語る上でもうひとつ欠かせないのは探偵小説についての作者の見解だ。創元推理文庫の旧版では冒頭に、新訳版では巻末に、作者が赤い館を書くに至った経緯と作者の探偵小説観を綴った文章が掲載されている。作者の理想とする探偵小説について、恋愛要素の是非やワトソン役のキャラクター設定などいくつかのポイントを挙げているが、この中でも探偵役は素人であってほしいという作者の好みは、後世の作品に多大な影響を与えたものと思われる。一部に強烈な語調で当時の探偵小説への不満をぶちまけてもいるこの短い文章もとても味わい深いものだ。
 
さて、たった一作にして素人探偵の代名詞となった(というと言い過ぎかな?)ギリンガムはとてもユニークで魅力的なキャラクターだ。視たものを絵のように記憶して絶対に忘れない、瞬間的な記憶力に長けたギリンガムは、その能力を遺憾なく発揮して事件の謎を追っていく。漢字に横文字をあてた能力名こそないが、現代のラノベにでも出てきそうなキャラクターである。確かS&Mシリーズの西之園萌絵も似たような設定ではなかったか。そしてワトソン役を務めるベヴァリーもまたいいキャラをしている。探偵役とワトソン役、それぞれの役割で協力しながら事件の謎解きを進めていくふたりの掛け合いも赤い館の大きな読みどころである。ギリンガムは無駄に秘密主義であったり尊大であったりしないし、助手を務めるベヴァリーの働きを率直に称賛したり、とにかく好青年だ。ベヴァリーの方もそんなギリンガムへの敬意を隠そうともしない。まったくもって仲睦まじい名コンビである。作中ではこのふたりが散歩をしながら事件について語り合うシーンが度々登場するが、新訳版の表紙はまさにそのシーンを描いたものだろう。
 

描かれざる第二の館

『赤い館の秘密』を僕が初めて読んだのは七年ほど前のことだったが、読み終わって感じたなんともいえない寂しさをいまでもハッキリと覚えている。今回再読してやはり同じような読後感を味わった。あの「くまのプーさん」の作者が書いた唯一の推理小説、それが赤い館である。つまり続編は書かれていないということだ。これほどまでに面白い物語、魅力的なキャラクター、そして彼らの次の行き先を明確に示した、いかにも続編がありそうな終わり方、でも続きはないんだよなぁ。これがミルン唯一の推理小説という情報を知らなかったら本気で続編について調べるレベル。果たして次回作の構想はあったのだろうか。トニーとビルの次なる冒険は。返す返すも、じつに寂しい。