懐風堂日誌

同人サークル・少年迷路主宰 五戸燈火の日記

【読了】山田正紀『カムパネルラ』創元SF文庫

宮沢賢治銀河鉄道の夜』といえば、文学方面だけにとどまらずあらゆる創作ジャンルに甚大な影響を与え続けている不朽の大傑作である、というのは当たらずといえども遠からず、あながち間違ってはいないのではないか、くらいのところが僕の認識だ。回りくどい表現をしたけれど、僕も『銀河鉄道の夜』が大好きで、かなりなところ影響を蒙ったひとりである。であるからして、『銀河鉄道の夜』をモチーフにした作品、『カムパネルラ』の存在を知ったとき、迷うことなく買ったのは必然であった。
カムパネルラ (創元SF文庫)

カムパネルラ (創元SF文庫)

 

 「何度も改稿される『銀河鉄道の夜』の世界に、僕は迷い込んだ」というのが本書の帯の謳い文句だ。ここからどんな物語が想像されるかは人によって様々だろうけれど、少なくとも僕が読む前に思っていたものと本書の内容は随分と違っていた。ある意味、良くも悪くも、想像を裏切られたかたちになったわけだが、なるほど、『銀河鉄道の夜』という物語をこういう風に扱うのかと、SF的な想像力(創造力)のすごさに敬服させられっぱなしだった。

 
本書のストーリーは、名前が明らかでない16歳の主人公の「ぼく」が、宮沢賢治の故郷である花巻を訪れるところから始まる。その目的は、宮沢賢治研究家であった母親の遺骨を豊沢川に散骨するためという少々重いもの。旅の途中、彼は亡き母と、彼女の研究対象であった『銀河鉄道の夜』について回想する。ここで『銀河鉄道の夜』のストーリーが結構な量の引用とともに紹介されるので、未読の読者にとってはもちろん、既読の読者にとってもありがたい作りになっている。同時に、この物語の世界観についても少しずつ明らかになってくる。とはいえこの時点ではまだまだ謎だらけ。そして花巻に着いた主人公は、土砂降りの雨が降りしきる中で、気がついたら昭和8年宮沢賢治の死の直前にタイムスリップしていたーー。
 
しかしどうやらただ過去へと飛んだだけではないらしい。どういうわけか周囲の人たちが「ぼく」のことを「ジョバンニ」ではないかと思っていたり、本来ならまだ生きているはずの宮沢賢治が5年前に既に亡くなっていたり、とっくに亡くなったはずの賢治の妹・トシが生きていて子供を産んでいたり、物語の中の登場人物であるはずの「カムパネルラ」が殺されたり、その死体の首が切られて花巻電鉄の車両の屋根に乗せられて運ばれたり、これまた宮沢賢治の別の作品の登場人物である「風野又三郎」が探偵として登場したり。いやはや、ここに挙げたのはほんの僅かな例にすぎない。序盤の流れはまさに土砂降りの雨で増水した豊沢川の流れのごとく、怒涛の展開。宮沢賢治ファンならば、たとえそうでなくとも、圧倒され翻弄されるに違いない。実に実にわくわくするストーリーだ。序盤のカムパネルラ殺人事件は探偵小説趣味あふれる趣向が凝らされていて、ミステリ好きにとってはたまらない場面になっている。しかしこの事件が本書のメインというわけではない(ので本格ミステリを期待して本書を手に取るのはあまりオススメしない)。あくまで本書は『銀河鉄道の夜』をモチーフにしたSF小説である。ミステリ風に言うのなら、本書のトリックは、物語の使い方にある。
 
銀河鉄道の夜』にはいくつかのヴァリエーションがあって、現在一般的に知られている『銀河鉄道の夜』はその第4次稿とされるものである、というのは『銀河鉄道の夜』を読んだことがある人ならば記憶していることと思う。しかし、この『カムパネルラ』の世界において流布している『銀河鉄道の夜』は第3次稿のそれであって、第4次稿は歴史の闇に葬られてしまったらしい。本書を読み進めていくと徐々にディストピア的な世界設定が見えてくる。『カムパネルラ』の世界ではメディア管理庁なる行政機関によって厳しい言論統制が敷かれていて、『銀河鉄道の夜』が第3次稿で止まっているのもどうやら彼らの思惑があってのことらしい。『銀河鉄道の夜』のメッセージ性を極右思想と結びつけて国民の思想統制に利用するためには第3次稿が適当だったという理由だ。そのために物語が大きく変更された第4次稿はなかったことにされた、というのが本書の世界観だ。なるほど、『カムパネルラ』は、歴史修正主義や表現の規制についての危険性がなにかと話題になる現代を見事に映し出した作品だった。
 
本書『カムパネルラ』の発想が『銀河鉄道の夜』という作品の成り立ちそのものにあるのは自明のことだろう。それを現代社会が抱える表現の問題に絡めただけではないのが本書の面白いところである。『銀河鉄道の夜』はそもそも完成された作品ではない。作者の死によって未完成に終わった作品とされている。現在我々が読んで知っている『銀河鉄道の夜』は、宮沢賢治が遺した草稿をもとに、後世の研究者によって校訂され編集されたかたちでの作品である。さらに『銀河鉄道の夜』は最初期に書かれたものと最終的に推敲されたものとではその物語に大きな差異があって、少なくとも3回は大きな改稿が行われたとされる。つまり『銀河鉄道の夜』には4つのヴァリエーションがあるということだ。というように、『銀河鉄道の夜』という物語のテキスト自体が、ある意味不定形のものである。
 
銀河鉄道の夜』が最初に出版されたのは宮沢賢治の死後、1934年のこととされるが、おそらくこのときは、この作品のヴァリエーションについての研究はまだまだ進んでいなかっただろう。現在我々が気軽に入手できる『銀河鉄道の夜』のテキストは、1974年に出版された筑摩書房『校本宮沢賢治全集』を底本とするものが多く、この時点になってようやく我々が親しんでいる『銀河鉄道の夜』の最終形、即ち第4次稿のテキストが決定されたのだった。つまり『銀河鉄道の夜』という物語は、出版された時代によって、読者が読んだ年代によって、同時代に出版されたものでもどのテキストを底本としているのかによって、その内容が大きく異なるということだ。ひとつの物語、ひとつの作品であるにもかかわらず、どのテキストを読んだかによって個々人の認識が異なる可能性がある。1974年の全集以前の『銀河鉄道の夜』にはブルカニロ博士が重要な人物として登場するけれど、現在広く知られている『銀河鉄道の夜』にはブルカニロ博士は登場しない。冒頭の場面も違えば、結末も違う。物語がもつ意味やメッセージ性、解釈の幅も微妙に変わってくるだろう。『銀河鉄道の夜』の来歴については公正な学術研究のたまものであるだろうけど、あえて言ってしまえば、ひとつの作品が改竄された過程にほかならない。もちろん現実の世界においてはその研究成果は明らかにされているから問題にならないものの、『カムパネルラ』の世界のように人知れず裏側でしかも恣意的な改変が行われるとなるとこれは由々しきことだ。
 
銀河鉄道の夜』のテキストが時代によって微妙に異なるものであることは指摘した通りだとして、問題はそのテキストを読む側にあると思うのだ。多くの読者は『銀河鉄道の夜』について果たしてどこまで知っているのだろうか。僕もここまでこの記事を書いてきたが、正直言って、非常に底の浅い、いい加減な知識だけで書いているに過ぎない(かもしれない)。『銀河鉄道の夜』の1次資料を読んだことはないし、編集されたものも第4次稿しかちゃんと読んでいない(ちなみに新潮文庫というのは記憶違いで角川文庫版でした。訂正)。宮沢賢治の研究書なんかも読んだことはない。そして多くの読者も、たぶん、同じようなものではないかと思う(そうでなかったら失礼)。当然といえば当然だ。人生の時間というとてもとても限られたものを『銀河鉄道の夜』の研究にどれだけ割けるというのか。そりゃもう本職の研究者や専門の学生か熱狂的なオタクでもない限り、なかなかそんなことはしないだろう。仕事がある、生活がある、他にもいろんな趣味がある。僕らにできることといえば、せいぜい誰かが用意してくれた『銀河鉄道の夜』を読むことくらいだ。だからこそ不特定多数がインプットする情報の取り扱いについては、最大限に慎重かつ公正で、論理的かつ誠実であらねばならない。なぜなら人間は知らないことを知ることはできないし、にもかかわらずその状態で様々な判断を行わなければならないからだ。本書『カムパネルラ』が語るメッセージ性のひとつに、情報を扱うことの難しさと危うさがある。
 
ともあれ、『カムパネルラ』を読むために『銀河鉄道の夜』を知っておく必要はないだろうけど、『銀河鉄道の夜』を読んでいる方が何倍も面白いのではないかと思う。ここまで使い倒すことができる『銀河鉄道の夜』というテキストのすごさと、山田正紀という作家のすごさを存分に味わうことができるからだ。