懐風堂日誌

同人サークル・少年迷路主宰 五戸燈火の日記

【読了】笠井潔『熾天使の夏』創元推理文庫

笠井潔先生のライフワーク「矢吹駆シリーズ」の第ゼロ作と位置づけられる本書。これまでのシリーズのなかではあまり明かされてこなかった矢吹駆の来歴や内面世界が本書によってある程度明らかになる。『バイバイ、エンジェル』に始まるシリーズにおいては、探偵役・矢吹駆はどこか機械的というか、超越的な人物のような印象が強い。それは隠者的な生活スタイルといった設定に加えて、物語がナディアの視点で描かれている影響もあるだろうが。矢吹駆の思想や理論については語られるところは多くあっても、人間としての矢吹駆については謎が多い。矢吹駆がどういった人間であるか、その答えのひとつが本書のなかにある。
熾天使の夏 <矢吹駆シリーズ> (創元推理文庫)

熾天使の夏 <矢吹駆シリーズ> (創元推理文庫)

 
私自身「矢吹駆シリーズ」にふれるのはちょっと久しぶりだったのであらためて整理してみたい。「矢吹駆シリーズ」は全10作で完結となる、といった主旨のことを以前どこかで読んだことがあるような気がする。記憶違いだったら失礼。ただ2017年から雑誌「ジャーロ」にて連載が始まったシリーズ第10作目『屍たちの昏い宴』が最終作であると、笠井潔先生がツイッターで呟いている。正直、本当に完結するのだろうかと何年か前には思っていたものだが、どうやら無事に完結しそうな情勢で嬉しい限り。だが、雑誌連載は終わっても、シリーズ後半はまだ本が出ていないので、まだまだ油断はできそうにない。現在のところシリーズ第6作目となる『吸血鬼と精神分析』が光文社より刊行されていて、これが最新刊ということになる。第7作目以降の書籍化はまだ確認できない。
 
さて、本書『熾天使の夏』についての感想に移ろう。序章から観念的な描写が多く、一人称視点の小説ながら主人公の存在感が奇妙に希薄な印象を与えて些か読みづらい。そういう叙述スタイルはおそらく作者の意図するところなのだろうと思う。地の文のなかに一人称を表す人称代名詞がほとんど登場しない。そのためキャラクターとしての主人公という像がなかなか見えてこない。まるで主人公の脳内を覗いているかのような、主人公の網膜に貼り付いて作中世界を眺めているかのような感覚だ。それは登場人物の会話によってよりいっそう顕著になる。普通、一人称視点の小説でも主人公の発話はカギカッコによって括られるものだが、本作では主人公であるカケルの台詞まで全て地の文で書かれている。そのため主人公が喋っているという印象になりにくく、まるで脳内に直接語りかけているみたいな感じがする。矢吹駆が抱いた観念を描くという主題が、こういった叙述スタイルを選択させたのだろう。
 
そういった読みづらさもあってか、序盤を読み始めたときはこれは本当に矢吹駆の物語であるのか、あるいは矢吹駆の物語であったとしても、時系列的にいつの物語にあたるのか、本編の記憶も薄れていたため余計にわかりづらい印象を受けた。そのあたりのことについては推理小説的な深読みをする必要は全くなく、時系列的にも『バイバイ、エンジェル』以前で、矢吹駆がチベットへと流れ着くさらに以前の物語で間違いない。解説でもふれられているように、本書は笠井潔先生のもうひとつの処女作である『テロルの現象学』の小説版ともいえるような関係をもっている。そちらを読んでいるとよりいっそう本書の理解は深まるだろう。また「矢吹駆シリーズ」の番外編ともいえる『青銅の悲劇 瀕死の王』に本書で登場した風視の妹が出てくる、と解説で指摘があって、そういえばそうだったようなと思い出した。読んだはずなんだが全然憶えてなくて情けない限りである。
 
ともあれ、笠井潔先生の作品は本当に面白いし大好きだ。今年はもう一度「矢吹駆シリーズ」を第1作目から読み直してみたい。