懐風堂日誌

同人サークル・少年迷路主宰 五戸燈火の日記

【読了】ハワード・グッドール『音楽の進化史』河出書房新社

 

音楽の進化史

音楽の進化史

 
イギリス出身の作曲家、ハワード・グッドール氏による本書『音楽の進化史』は、西洋音楽、いわゆるクラシック音楽を中心とした音楽の歴史を、先史時代から現代へと時系列順にひもといていく本である。日本語のタイトルは「音楽の進化史」といういささか堅い表現になっているが、原題は“THE STORY OF MUSIC”で、本書の内容もまさに「音楽の物語」と呼ぶのがふさわしい、身構えずに肩の力を抜いて読むことができるものとなっている。本書はある種の歴史書のスタイルをとっているが、ひとことでいえば音楽そのものについての本だ。著者がクラシック畑の人間だから必然的にその記述はクラシック中心のものとなっているが、序盤で、そして作中でも繰り返し語られることだが、クラシックというジャンルそのものを相対化するようなかたちで、音楽とはなにかというテーマに切り込んでいく。
 
私がこれから語る音楽の物語を読む際には、まず、頭の中から現代の常識を追い払って欲しい。そして、今、私たちが当たり前のものだと思っている数々の技法がまだ生まれたばかりだった頃のことを想像してみて欲しい。当時の人は、どれだけ驚き、戸惑っただろう。また、どれだけ喜んだだろう。(Goodall, 2013, 夏目訳, 2014, pp.12-13)
 
現代の私たちにとってクラシック音楽というのはどういうものだろうか。高尚な芸術音楽、堅苦しいコンサート、黴の生えたような古典、若者が聴くものではない、などなどいろんなイメージがあるように思う。だが現代人がクラシックと呼んでいる音楽も、それらが作られた当時は、その時代のその地域のごく一部の人々のあいだで聴かれただけの音楽にすぎない。現代のポピュラー音楽が、ブルースやジャズなど新しいスタイルの登場、エレキギターシンセサイザーなど新しい楽器の登場、DTMボーカロイドなど技術的な革新によってさまざまにかたちを変えてきているように、クラシック音楽の時代にも同様の変化は絶えず発生してきた。現代人が当たり前だと思い込んでいる音楽も過去においては当たり前ではなかったし、それはおそらく未来においても当たり前ではなくなるだろう。しかしそうなったときにも音楽そのものはおそらく変わらない。本書は音楽の技術的な面での変化、進化を軸として、私たちの固定観念を打ち破ってくれる、とてもスリリングで面白い本である。
 
音楽といえば、それは当然クラシック音楽だけのものではない。おそらくその歴史は人類の歴史と同程度の長さをもつものだと思われる。ただ音楽は技術的な制約から他の芸術分野に較べて古い時代の資料が格段に乏しい。録音の技術が発明されてからまだ200年と経っていないし、それ以前の音楽の記録といえば楽譜となるわけだが、古い時代の楽譜がどういう音階を奏でる楽器を想定して書かれたものなのか、当時の楽器が現存していなければ譜面だけ解読できたところで意味がない。本書がクラシック音楽中心となるのは他のジャンルに較べてまだ資料が残っているからという理由もあるだろう。
 
本書の記述は平易なわかりやすい文体を意識して書かれている。堅苦しい専門用語を相対化するというねらいもあると思われる。ただ音楽の理論的な話も当然登場するので、現代の音楽で当たり前とされている教科書的な理論をある程度知っているとよりいっそう読みやすく楽しめるだろう。また音楽の歴史も、他の芸術分野と同様、社会や政治の歴史と不可分であるし、あるいは音楽以外の芸術分野との連関もある。幅広い西洋史や文学などの教養が本書を読み進める上で大いに役に立つ。
 
後半はジャズやロックが登場する現代のポピュラー音楽の時代についての記述となるが、この時代におけるクラシック音楽の役割について、クラシックの現状を嘆きつつも可能性を信じている著者の見解が興味深い。確かにクラシック音楽は現代では古いものではあるだろう。しかし映画やテレビ番組などで使われて日常的に耳にする機会は多くあるし、クラシックのスタイルを踏襲した新しい楽曲はそれこそ映像作品のBGMのなかにあふれている。昔の著名な作曲家のように作った人の名前が広く知れ渡ることは少ないし、なんという名前の曲なのかも知らないが、新しいクラシック音楽を多くの人はそれと知らずに聴いているはずだ。本書を最後まで読んで、私も同じだったとあらためて気づいた。本書の著者ハワード・グッドール氏がミスター・ビーンのテーマ曲を作曲した人だと最後に気づいたからだ。子供のころ何回も何回も繰り返して視て、いまでもはっきり憶えているあのメロディの作者のことなど、いままで考えることもなかった。そういう何気なく聴いていた音楽も、それがどういう音楽なのか知るとまた違った聴こえ方がして面白い。本書を読むことで音楽の楽しみ方がまたひとつ増えることは間違いないだろう。