『家畜人ヤプー』の著者である沼正三とは誰であるか――。覆面作家・沼正三の正体については諸説あるようで、Wikipediaのページにも議論のあることが書かれている。現在この説がどういう扱いになっているのかはこれ以上調べていないのでわからないが、沼正三の正体として告白したことがある天野哲夫が上梓した作品が本書『禁じられた青春』だ。ただ現在最も手に入りやすい幻冬舎アウトロー文庫版では沼正三名義となっていて、私が今回読了したものもこれであるため、本稿では沼正三の作品として扱うことにする。参考までにWikipediaのページは以下の如く……。
本書は小説の体裁をとっているが作者自身の自伝的要素が色濃く滲み出している作品であるようだ。タイトルの通り、主人公・沼倉正三(この名前が沼正三を反映したものであることは言を俟たないだろう)のインモラルな、異常性癖に満ち満ちた少年時代が回想のようなかたちで描かれる。時代背景は戦前、昭和初期。舞台は主に、天野哲夫の略歴とも重なる、福岡県だ。小説とはいうものの、本書から明確なストーリーを読み取るのはちょっと難しい。昭和初期の主人公が生きた環境における文化、風俗、地理、歴史、社会状況などが主人公の視点で非常に克明に、微に入り細に入り書かれている。一読した感覚では、物語というよりはある種の歴史書でも読んだかのように思えるほどだ。もちろん書かれている内容は脚色されたものではあろうが、その時代を生きたことがない私にとっては、昭和初期のごく普通の、いや経済的には下層階級にあたる人々の暮らしとはこんな感じだったのかと興味深く思ったものだ。この感想がどれだけ的を射たものかはわからないが、そこまで大きく外れてもいないように思う。
昭和十六年、私は十五歳になっていた。軍国少年で、文学少年で、活動写真少年で、盗癖少年で、そして噫、私は変態少年であった。
上記の引用は、上巻を締めくくる「私」の述懐であるが、本書の中身が見事に表現されている。正常とされる価値観になじめない、普通に生きているだけが異常になってしまうという主人公だが、いってしまえば彼は非常な多趣味な人間である。私にはただそれだけのことに思えた。そう思えるのはやはり時代の違いという面はあるだろうが。ともあれ、本書の中身は多岐に渡る趣味と性癖のオンパレードだ。その範囲はとにかく幅広い。誰もがひとつは心当たりがあって共感するところがあるのではないかと思える。私なんかはそもそも生きた環境がまるで違うので、単純な比較は慎むべきではあろうが、なんとなく似たような経験に心当たりがあったりして、時代が変わってもその精神性においては変わらない部分も垣間見えるようでとても面白かった。作中では異常として取り上げられていることも、いや、それくらい少年時代には普通にあることでは? と思うところが多々あったり。え、つまり私も異常だったってこと? ま、だからどうしたという話ではある。
作中には主人公の趣味としてその当時に流通していたさまざまな実在の芸術作品が多く登場する。小説、漫画、映画、流行歌、雑誌などなど、数え上げればキリがないくらいだ。この時代の少年がどんなものに触れて育ったのか、まさにこの時代の(当世風にいうならば)オタクの嗜みを知ることができる。なかには詳細に引用されるものもあるが、多くは知っていることが前提のような書き方でもあるので、自分の知らない他人の好きなものをただ語られるだけというのは退屈なものかもしれないが、私はそういうのが大好きなのでとても楽しめた。取り上げられているものは小説と映画が特に多いので、この方面の参考書としても本書は使えるかもしれない。作中で言及された作品については最後に自分用の覚え書きとしてまとめておこうと思う。
本書はそれぞれのテーマに沿った短い断章がいくつも積み重なるような構成をとっている。ひとつの章はだいたい20ページ前後ほどで、中巻下巻も同様のようだ。ひとつひとつの内容はとても重い。一気に読み通すには向かない作品だと思う。いくつかの章を読むともうその日はお腹いっぱい、といった感じになる。最初はさらっと読み飛ばして、あとから気になった章をじっくり読むという読み方もいいかもしれない。変態に自覚のある人ならば、どこかに必ずこれはと思うエピソードがあるだろう。私としては主人公の精通に関するエピソードがもう最高だった。突然のショタBL展開に思わずにっこり。いずれ、なかなかに酷いエピソードの連続ではあるのだが、そういうところを開き直るでもなく、正当化するわけでもなく、あくまでも自分にとっての「普通」に忠実に書いている。そういった書き方、視点、価値観が本書の最も面白いところだろう。
以下、本書に登場した創作物の抜粋である。表記は本文に準じる。とりあえず登場順に列挙しただけであるためなんともまとまりがない。そのうち情報の裏を取ってわかりやすくまとめたいと思う。
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宝塚少女歌劇『パリゼット』の主題歌『すみれの花咲く頃』
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『若きヴェルテルの悩み』
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松浦幸雄『黒い菊』
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『福翁自伝』
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『小公女』『小公子』
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南洋一郎『決死の猛獣狩』『吼える密林』『南海の冒険王』
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アンドレ・ジイド『「故郷を棄てた人々」に就いて』
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野口雨情詞・中山晋平曲『船頭小唄』
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アンデルセン『マッチ売りの少女』
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少年講談『佐賀怪猫伝』『児雷也』
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『金色夜叉』『不如帰』
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『母を訪ねて三千里』『瞼の母』
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小学唱歌『われは海の子』
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佐藤紅緑『紅顔美談』『あゝ玉杯に花うけて』
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久米正雄『青空に微笑む』
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雑誌『幼年倶楽部』
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『女殺油地獄』
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『列子』
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『白縫物語』
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陳舜臣『録外録』
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阿刀田高『たべもの抄』
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大仏次郎『花丸小鳥丸』
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『ロビンソン』『十五少年』
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マーク・トウエン『王子と乞食』
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李汝珍『鏡花縁』
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貝原益軒『女大学』
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ヴィリ・フォルスト『未完成交響楽』
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『朧月夜』
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『私は貝になりたい』
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映画『叛乱』 原作者・立野信之
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ルソー『懺悔録』生田長江訳
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斎藤茂吉『赤光』
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乱歩『人間椅子』『芋虫』
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谷崎『瘋癲老人日記』
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シュペルヴィエル『妻との再会』
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香山滋『深海魚』
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鏡花『高野聖』
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島田清次郎『地上』
- 石川達三原作の日活映画『転落の詩集』
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『雨ニモマケズ』
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一休『狂雲集』
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『軍人に賜わりたる勅諭』
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『ブリキの太鼓』
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伊藤野枝『白痴の母』『転機』
- 田山花袋『重右衛門の最後』
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藤村『破戒』
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東海林太郎『国境の町』
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泉鏡花『蛇くひ』
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佐藤紅緑『一直線』
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佐々木邦『おさらい横丁』
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沢田謙『少年プルターク英雄伝』
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古賀政男『東京ラプソディ』
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『忠臣蔵』
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映画『オペラ座の怪人』
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ベルリン・オリンピック記録映画『民族の祭典』『美の祭典』
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アントン・ウォールブリュック『大帝の密使』
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ハロルド・ロイド『牛乳屋』
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三条輝子主演『御存知猿飛佐助』『山嶽の魔女・女ターザン』『神変不知火冠者』前後篇『怪談千羽屋騒動』『本朝怪猫伝』
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流行歌『大利根月夜』『旅笠道中』
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スペンサー・トレイシー&ミッキー・ルーニー『少年の町』
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『キング・コング』
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ディアナ・ダービン『オーケストラの少女』
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ドロシー・ラムーア『ジャングルの女王』『ハリケーン』
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ディートリヒ『間諜X27』
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『良人の貞操』『男の償い』『人妻椿』『浅草の灯』『暖流』『荒城の月』『朱と緑』『愛染かつら』『母の魂』『子は誰のもの』『五人の斥候兵』『士』
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ジャン・ギャバン、ジュリアン・デュビビエ『望郷』『我等の仲間』『地の果てを行く』
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マリー・ベル『舞踏会の手帖』
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ダニエル・ダリュー『禁男の家』『不良青年』『恋愛交叉点』
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『隊長ブーリバ』
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『シピオネ』
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トマス・ハーディ『テス』
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吉田絃二郎『生の悲劇』
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流行歌『湖底の故郷』
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『太平洋行進曲』
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『日米若し戦はば』『太平洋の波高し』
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平田晋策『昭和遊撃隊』『新戦艦高千穂』
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海野十三『浮かぶ飛行島』『地球要塞』
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山中峯太郎『見えない飛行機』
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『賽の河原地蔵和讚』『苅萱道心和讚』
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鶯亭金升『明治のおもかげ』
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巌谷小波『僕の観兵式』
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ジンタ『美しき天然』
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『日本書紀』
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広野藤吉『二千六百年史』
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『抜刀隊の歌』
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谷崎『少年』
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大下宇陀児『恐るべき教師』