懐風堂日誌

同人サークル・少年迷路主宰 五戸燈火の日記

【読了】ドロシー・L・セイヤーズ『大忙しの蜜月旅行』創元推理文庫

古典黄金時代を代表する女流作家、ドロシー・L・セイヤーズによるピーター・ウィムジイ卿ものの第11長編であるBusman's Honeymoonの翻訳がようやく創元推理文庫から刊行された。ようやく。まさしく、ようやく! ピーター卿が活躍する一連の長編作品は1993年から2001年にかけて浅羽莢子さんの翻訳で10作目の『学寮祭の夜』までが刊行されている。しかし最後の長編はハヤカワ・ポケット・ミステリやハヤカワ・ミステリ文庫から『忙しい蜜月旅行』の題で出ているが、どういうわけか創元推理文庫で揃っていなかった(そのあたりのことは翻訳権の関係らしい)。解説の冒頭でも「「長らくお待たせしました」」と綴られているが、まさにそれ! ようやく11冊目を本棚に並べることができるのかと思うと感慨深いものがある。

大忙しの蜜月旅行 (創元推理文庫)
 

本書は昨年から続く名作ミステリ新訳プロジェクトの一環でもある。新しい訳者の猪俣美江子さんといえばマージェリー・アリンガムの翻訳などでもおなじみの方だ。ピーター卿シリーズは浅羽さんの翻訳が素敵すぎるので新訳はどうだろうかといささか不安に思ったりもしたものだが、とても読みやすい翻訳で安心した。浅羽さんの訳から引き継がれた部分もあるはずで、これまでのシリーズから続けて読んでも違和感のない仕上がりとなっている。カバーイラストが前作までの童話のような幻想的なイラストではなくなっているところは残念だが、新しいイラストもなかなか素敵だ。いままであまりイメージできていなかったが、なるほどピーターとハリエットはこんな感じなんだなぁ。

 

本編の内容はタイトルの通りピーターとハリエットのハネムーンの物語だ。前作『学寮祭の夜』のラストでの劇的なプロポーズから約5ヶ月後(という説明を読んで、すっかり忘れていたので読み返してみたら確かにそうだった)、ハリエットが子供時代を過ごした農村「トールボーイズ」へ新婚旅行に訪れたウィムジイ夫妻(そう、もうヴェイン嬢ではなくハリエット・ウィムジイ! こんなところにもちょっとした感動)と、もちろん忠実なるバンターも同行して、案の定事件に巻き込まれる。せっかくのハネムーンが台無しかと思いきや、探偵と探偵作家のふたりなのだからそんな状況にも立ち向かいつつ結婚生活についても考え始める。本作は本格推理小説の骨格を持ちながら、恋愛小説といった要素も多く含む。

 

もともとハリエット・ヴェインの登場以後、恋愛要素もシリーズの大きな魅力のひとつだが、本作ではふたりは既に結婚しており、いままでとは立場も変わり、それに起因する人生の悩みなどについて語り合うシーンが多く登場する。事件について意見が衝突する場面なんかも、結婚生活における食い違いを思わせるものがあるが、あくまで互いを認めあって知的に物事を解決していく。大人というのはこうあってこそだと、読んでいてとても清々しい思いがする。セイヤーズの描くキャラクターの魅力は本作が一番優れているのではないか。ピーターにしてもハリエットにしても(そしてバンターも)いままでの作品では見られなかったいろんな面が見られて、ここまでのシリーズを読んだ人には最高のご褒美のような作品である。

 

さて、本書には表題作の他に、その後日譚ともいえる短編が併録されている。これこそ紛うことなきご褒美だろう。ハネムーンの事件から7年後、舞台は同じくトールボーイズ、3人の子持ちとなったウィムジイ夫妻とちょっとした日常の謎。ピーターと長男・ブリードンの仲睦まじい姿が最高だ。このふたりがやんちゃをやらかすのがとにかく面白すぎる。しかしセイヤーズは本当に人間を書くのが上手いなぁと改めて思うばかりだ。セイヤーズ作品が全く色褪せない大きな理由のひとつだと私は思う。