懐風堂日誌

同人サークル・少年迷路主宰 五戸燈火の日記

【読了】ロナルド・A・ノックス『陸橋殺人事件』創元推理文庫

ついにこの作品と向き合うことになってしまったと、本書を手に取っただけでとても感慨深い思いを抱いたものだった。本書の作者ロナルド・A・ノックスといえば「ノックスの十戒」を書いた人物としてそれなりに広く知られていると思う。同様の探偵小説の掟のようなものに「ヴァン・ダインの二十則」があるが、こちらの作者ヴァン・ダインは実作のほうでもオールタイム・ベスト級のものを残している。しかしそれに較べてノックス氏のほうは小説作品の評判があまりにも薄い。かろうじて「陸橋」の名が代表作として見えるくらいで、どんなものを書いた人なのかよくわからない、名前だけは有名な謎の作家という印象を推理小説を読み始めた当初に抱いたのを覚えている。 
陸橋殺人事件 (創元推理文庫)

陸橋殺人事件 (創元推理文庫)

 
本書を読み終わってみて思うのは、とにかく読んでよかったという最高の満足感が一番にあるが、もっと早く読んでおけばよかったとは全く思わない、むしろ古典的な名作とされるものを一通り読んだいまだからこそ楽しく読めたとも思える、そういう奇妙に倒錯した読後感がある。例えばアクロイドとかレドメインとかグリーン家なんかは早いとこ読んでおくに越したことはないタイプの作品だろう。しかし陸橋はそうではないと言い切って差し支えないように思う。傑作であることを期待して読むとがっかりする可能性は高いと思うし、謎を解いてやろうと勢い込んで読むと作中の探偵役と同じように肩透かしを食うに違いない。どこか斜に構えて探偵小説的なお約束に翻弄される余裕をもって読むくらいがちょうどいいし、そういう読み方を楽しめる人であれば本書との相性も良いと思われる。
 
ぶっちゃけ言ってしまえば、本書の内容はとてもシンプルで偶然事件に遭遇した好奇心旺盛な素人探偵気取りの登場人物たちが事件を手前勝手に嗅ぎ回り探偵小説的なトリックの影を幻視して迷走するだけの話である。そのうえ事件そのものとはあまり関係がない舞台背景などの描写が細かく衒学的すぎるきらいもあり物語の薄さのわりに冗長な印象が否めない。もちろん私はそういうところも含めて本作の文体が大好きなのだが、推理小説としては無駄が多いように思う。事件の真相についても、作中に登場するデータから推理可能かどうか疑問に思う。なんてことはない真相なので全く推理できないわけではないだろうが、事件の流れを的中させるにはかなり想像に頼らざるを得ないし、やはり決め手に欠ける。探偵役の推理が二転三転する物語の展開の作りはとても上手いと思うが、最後までその調子で終わってしまうのでは本格推理小説とは言いがたく、前時代的な探偵小説にとどまるものと言わざるを得ない。
 
だが、私は本作がめちゃくちゃ面白かったし大好きだった。無駄に衒学的で人を食ったような文体は読んでいてとても心地よいものだった。顔のない死体・列車の時刻表・止まった腕時計・暗号文・秘密の通路・人物入れ替わりなどなど探偵小説的なギミックが盛りだくさんで最後まで飽きることがなかった。好奇心旺盛で悪趣味でブラックなユーモア満載の素人探偵たちが繰り広げる推理合戦も素晴らしい。彼らは真相を究めるつもりが互いに足を引っ張り合う結果となって真相から遠ざかってしまうわけだが、そういうプロットそのものが読者を煙に巻くトリックだと好意的に解釈することもできるかもしれない。ともあれ、本書は非常に読む人を選ぶ作品であることには違いない。だがいわゆる黄金期の英国探偵小説の舞台背景や空気感が好きで、冗長な文章にも抵抗がなく、「こんなじめじめした日の午後は、気分転換のために人殺しでもやってみたくなるものだが」とかいって推理談義を始める愛すべき素人探偵たちが好みであれば間違いなく楽しめるものと思う。「トレント最後の事件」や「赤い館の秘密」やアントニー・バークリーの諸作品が好きならいますぐ本書を手に取ることをおすすめする。