懐風堂日誌

同人サークル・少年迷路主宰 五戸燈火の日記

十一月六日。曲亭馬琴に纏る史跡を訪ふ。

余の最も心酔せる著述家は曲亭馬琴なり。けふの日付がその忌日とものの本に読みて墓参を思い立ち、健脚の友を二人ばかり呼出し、朝から東京散歩を起しぬ。
 
さて、後に心得しことなるが、馬琴の忌日は固より旧暦の日付にて、新暦なれば十二月一日なりといふ。羞かしき思ひ違いなりしが、けふが日曜日なれば友を誘ふに容易かりと思ひてけふを選みぬ、といふ言訳を先に記すを許し給へかし。
 
秋晴れの天に雲はなく、陽光燦々として暑し。絶好の散歩日和なり。先ず西日暮里より始めて、筆塚の碑の残りたる青雲寺を訪ふ。碑石に刻まれたるは漢文にて、余の不勉強なればよく解せざりき。おそらくは馬琴の事蹟などの記されたらんや。
 
ここから徒歩より処を移す。次は滝沢家の菩提寺なる深光寺を指して歩きぬ。観潮楼跡を横目に団子坂を上り、白山を過ぎて小石川植物園を周り、播磨坂を通りて茗荷谷に至る。拓殖大学の近隣なる小さき寺院なり。墓石の前には花も線香も供へられたるものもなし。ただ彼を思ふ者の三人ばかり墓前に侍るのみ。世を去りて後の知音を得たる心地するも、時代を越えたりし言の葉の為せる業なるべし。余の著述といふ業に惹かれたるも、かような効果こそあればなれ。
 
墓参を済ませて後、馬琴の一生を遡るが如くに住居跡を辿る。茗荷谷から南下して、信濃町なる馬琴終焉の地へ往く。いまの駅前の交差点の辺りが、彼が晩年を過ごせし住居の在りし処なり。中華食堂日高屋の脇にこれを知らせる看板あり。
 
信濃町駅から総武線に乗りて飯田町駅へ往き、降りて九段下へ向ふ。ここにはかつて馬琴の住居ありし処に井戸の跡あり。いまはその上にマンションが建ちて、その玄関先に深閑と往時の趣を残せり。又この近隣にありて、馬琴もよく訪れしと聞こえたる築土神社も訪ひぬ。
 
さらに歩きて神田明神男坂を下りて、かつて神田同朋町と呼ばれし街なる住居跡を訪ふ。いまは秋葉原裏通りの外れなる芳林公園がその処なり。余は秋葉原を度々訪れたりしが、ここに馬琴のかつて住みたりしこと、羞かしながらいままで知らざりき。新しきことを知りて、かつて知りたるものの見え方に、異なる光を当てることこそ生きるといふ営みなるべけれ。まさしく時を移して影の移らふ、天体の運行に似たり。
 
暫し秋葉原を散策し、かにかくの買ひ物をしつ、都営浅草線に乗りて清澄白河駅に降りる。清澄庭園の向ひに馬琴誕生の地あり。けふの最後の目的地なり。西日暮里を起ちてから凡そ六時間が経ちたり。はや日も暮れて十三夜の、月の南天に明らかなり。時を遡るが如く、かつて江戸と呼ばれし街を、江戸と呼ばれし頃を偲びつ、歩く道は瀝青の、地肌を覆ふ硬さなれど、言の葉を接ぎて意を繋ぐ、文化文明の豊穣なる、尊き業のあればこそ、いまの世にいまはなき、街を幻視するもあり得べし。